台風近づくさなか、老いと尊敬を想う

今日は仕事が半休になったので、16時のバスに乗りこむ。
 
100円のレインコートとビニル傘で、この風雨をそれなりに
凌げたけれど、乗り込んだバスの中ではちょっと邪魔か。
と思いながら、最後方の席、右側に荷物と我が身を預ける。
 
次のバス停でサングラス、ベレー帽、ジーンズという出で立ちの
年配者が乗り込んでくる。空いてる車内の何処へでも座れば
よいはずのその男は、しかしなぜか私の隣へ腰掛ける。
いや、この「私の隣」というのは、彼にとっては正しい
表現では無いのだろう。彼にとっての唯一無二、彼が座るに
相応しい場所は、「後部座席のど真ん中」であり、その隣に
私が居ただけに過ぎない。
 
まるでリムジンかロールス・ロイスの座席でもイメージして
いるかのように、足を組み腰掛け、前の座席の掴み手摺を
右手で握る。ちょっと多い荷物の所為で隣人から距離を
とりきれない私にとっては、その尊大な右手がどうしても
視界に入ってしまう位置関係だ。
 
通路さえあれば、この見苦しい男を見ずに済む席へ移りたい
ところだが、生憎と組んだ足は私の行く手を遮る。あきらめて
深く腰掛け直せば、よくわからないタイミングと趣旨で、
咳払いなどしている。
 
 
なんだ、お前。
 
 
年配者は可能な限り敬うつもりだが、こんな男は駄目だろう。
こんな公共交通で、そんな乗り方してる大人の、どこにどう
敬意を払えばよいのか。頭の先から爪先まで、「私は幼い」
と主張しているだけではないか。
 
25分ほど、その愚かな乗客との乗り合いを経て、我が家
最寄の停留所が近づく。それまでに、ある仮説が私の頭に
産まれていて、その仮説は恐らく正しいと思っていた。
いやむしろ、外れてくれた方が嬉しいのだが。
 
降りる前の停留所あたりから、レインコートを着込み、
ビニル傘の準備をする。荷物を抱え、降車ボタンを押す。
一連の動作にも、「仮説」どおり、この男は組んだ足を
そのままにして、ただ右手で掴んでいた手摺を左手側の
ものに持ち替えただけ、あとは微動もしなかった。
 
彼にとって、私という乗客は、自らのリムジンに勝手に
乗り込んだ、取るに足らぬ存在、そういうことのようだ。
尊大さは限りなくあるが、尊敬はそこには存在しない。
こんな大人、しかも人生の締めくくりの近づく大人が、
存在することはとても悲しいものだ。
 
人生はいつだって勉強だ、学ぶ事を放棄してはいけない。
何歳とか関係無い。だから、学んで改めろ。
 
そう思いながら、座席を立ち、その邪魔な組み足は、
遠慮無い感じを装い、膝と脛で払いのけ、その場を去る。
 
2011年、大変な年だ。こんなにいろんな出来事が
起きても、自分を変えられない人の多さに、これ以上
気づきたくないんだ。