今年も911

早いものでもう5年。お約束で今年も
11日には更新をしませんでした。
  
しかし、自分でもびっくりするぐらい
風化してるんですよ。あれほど瞼の裏に
焼きついていたはずのあの光景が。
飛行機がビルに突っ込むなんて一体どこの
絵空事かと思いはじめている自分に辟易
してしまう。
   
気を取り直し。最近考えるのは、世界に
50億人超、もしかしたら60億人いる
として、「偏りの少ない十分な情報」を
労せず手に入れられる人数って、本当に
少ないだろうなあと。情報が過剰に
取捨される仕組みのなかで生きている
人と、そもそも情報が入ってこない人、
それから世界をかけめぐる情報には別段
興味がない人、それらを足し合わせたら
軽く9割超えるだろうなあと思う。
   
普段目に耳にする情報が、かなりの作為に
満ちているとすれば、当然だけどその人の
ものの考え方が作為によって歪む。そこへ
特別な触媒が加わると、「ハイジャック
した飛行機で乗客もろともビルに突っ込む」
ことが念願になってしまう人間ができて
しまう。現実に事件が起きてしまった。
  
彼等を産んだ「仕掛け」は、前にも書いた
けれど遥か遠い島に居る僕らでは、完全に
理解することなど到底できない。それでも、
自他の命を守れない人間を産み出した
「仕掛け」がどんな形で存在するのか、
そこは知りたいと願わなくてはいけない。
そうしなきゃ、また同じことが起きても
当たり前にしか思わない。当たり前になった
ことは更に人々の関心が薄くなる。ことの
重要性と関心が連動しなくなることこそ、
むしろ最悪の事態だ。
  
「テロリストになるために」生まれ落ちた
人なんていない。テロで命を散らすことが
至極の望みになる「仕組み」を取り去る
方法を、世界のそこかしこでもっと考えたら
良いと思う。だけど、その材料が揃う場所=
「偏りの少ない十分な情報が手に入る場所」は
とても少ない。だから、数少ないそういう
場所にいる僕等が、「彼等を理解する」
試みを止まずすべきだと、強く訴えたい。