いつだって僕等は

とにかく忘れやすくてどうしようもない。
世界のどこにも安心して過ごせる場所は
なくなってしまったのに。気づいたらまた
安穏と暮らしている。安穏と暮らせることの
有難さを、まだまだまだ噛みしめきれないで
生ぬるい根性で生きている。
  
別にいつも殺気立って生活する必要はないし、
かといって、すぐにまた忘れ去るような
安っぽい生活も厭だ。じゃあどうすればいい。
蒸し返すように時たま身の回りを警戒しなおす、
それは現実的ではあれ、もし、「万が一」が
起こったときには、その労力も無に帰す。
  
逆を取ってみよう。例えば「心無き」心が為す
「テロ」という行為に、生命を奪われる日が
来るとしよう。そのとき息絶えるまで、何を
自分は思い、残り僅かの意識でもって、どんな
言葉を遺すのだろう。あるいはそれすら遺せず
あっさりと散りゆくのだろう。こんな「もしも」を
考えるのは気が滅入るだろうが、それは果たして
「テロ」という行為に対してであろうか。
  
見直せば即ち、突然に消える「自分」を形どり
色どるものがあるかどうか、そこが不安になりは
しないだろうか。遺す言葉がなくても、あるいは
遺せなくても、その時まで居た「自分」を著す
媒介が我が身に備わっていることを、大抵は
願うものだろう。家族・友人・恋人・師弟・
恩人…、人の心に永く残る「自分」でありたいと
願うものだろう。なぜって、そこで消えゆく
命だなんて、思っていないのだから。
  
で、立ち返る。いまは幸いにして、俺も皆さんも
生きている。げに良きことです。生きていることで
得られる享楽に耽ることも、悔いを無くすならば
正当かも知れない。だけど、それで遺せるものは
いくばくだろう。死して屍拾うものなし、そんな
考え方も尊重しよう。
  
だけど俺は、すっかり忘れ去られてしまう人として
終えること、あるいは思い出したくない人として
終えること、それらをどうしても避けたい。
そのことの方が、よほど俺にとっては大事なこと
なんです。その媒介はなんだって良い(できれば
仕事じゃないのが良いけど)。そんで結局なんでも
良いから磨きをかけねばいけない、と焦るばかりです。
   
年に一遍ぐらい、こんな日記書いてみようかなと
ちょっと思っただけですよ。明日からはまた
のらりくらりと書きます。