他者を知る

たとえば俺は前の会社に5年間勤めたことに
よって、そこら辺の主婦の皆様よりも詳しい
野菜の知識を持ち、果物のカッティングが
迅速にでき、材料さえあれば花束を作る
ことができます。あと、POSレジも扱えます。
  
この経験を積極的に使う場面は、転職した今は
ほとんど無いけれど、この経験を認識している
方々からは重宝がられる場面があったりします。
さすがに「フルーツ盛り合わせお願い」とかは
ありえないけれど、成り行きでレジを納品する
時に、レジ打ちの経験が無駄に生きたりするのです。
  
同じようにソフトウェア一筋で10年やってきた
同僚には、多少無理難題だったりもするけど
パソコンのお悩みが社内外から舞い込みます。
  
それぞれの遍路を知ることは、このような形で
その人に付加価値を与えることになるわけだし、
とにかく便利なものです。
  
例えば職人さんのように、ある程度二次元的に
経験の蓄積を表現できる世界も無くはないの
ですが、それはかなり例外的。我々の多くは、
お互いの経験を持ち寄り、楽したり、得したり
できるわけです。
  
で、たまにですが、他者の経験にそうした価値を
与えられない人がいます。自分の見た・聞いた
物事を誇大に提示する人。虚構や妄想を経験と
偽り、他者の経験を矮小にしたがる人。あるいは
経験の範疇を理解できず、専門者の前で誇らしげに
拙い知識をひけらかす人もいます。
  
謙虚に人の話を聞くことによって、そうした局面で
恥を掻く事態を未然に防げるわけですが、それ以上に
個性を持った人を作り出す素地を阻害している
ことを、俺は指摘したいのです。過去は過去だと
認識したうえで、せめて自分を個性的たらしめる
材料として、お互い活用できるような、そんな
コミュニケーションに飢えているこのごろです。